くれ ない の 二 尺 伸び たる 薔薇 の 芽 の 針 やわらか に 春雨 の ふる 意味。 正岡子規 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

余計なことですが、これが日本語の力。 (何気ない情景を詠んだうたではない、というのは、最初に、なぜ、たたみに届かないことを、それほど重要視するかということを述べましたが、ここから、出てきます)。

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ご解釈だと、芽に3つの形容詞がかかり、かつその芽が赤いということなのですね。

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とすると、さっきまでの薔薇の全体像、そして薔薇の先端から、視点は急にクローズアップするように動いていく。

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風もなく、シトシトと霧のような春雨です。 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり 茂吉の歌では、さらに助詞の「 は」が主観と連動することで強調される。

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もちろん、「芽」をつぼみととらえる解釈もあるでしょう。 これも子規の未来の想像。

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初5字の「くれなゐの」は続くべき名詞が見当たらず、では枕詞かと思い出もするが明確な相手が見つからず、頭でっかちのままフラフラしている内での3連発を食らうことになる。 斎藤茂吉『赤光』・大正2年(1913年) くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 、紹介したこの歌の「 の」の働きは、 はしきやし少女に似たるくれなゐの牡丹の陰にうつうつ眠る 正岡子規 たとえば、この歌の「 くれなゐの牡丹の陰に」の「 の」とではだいぶ違うのだと思う。 「薔薇の芽の」 この句の「の」はどちらも、連体修飾格の格助詞です。

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*この歌の句切れについて。 たまたま、瓶の藤の花を見たということでもよいのですが、この「たまたま見た」は、歌においては、「必然理由」になります。 斎藤茂吉は「『針やはらかに』といって、直ぐに『春雨の降る』と止めたあたりフランス印象派画色彩のおもかげである」と評しています。

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薔薇 ばら の芽の針 はり=とげ が「 やはらか」であり、また春雨 はるさめ の降り方も「 やはらか」と受け取れます。 それだけだったんですね。 わざわざこれをうたにしたというのは、何故かという疑問です。

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